君の声

 何も知らなかった自分は、幸せだったのだろうか。
 思い出しながら、ふと、思う。
 今の自分は、幸せなのだろうか。
 あの時の自分が知る由もなかった数多の言葉に楽しまされ、傷つけられた。
 あの時の自分では想像すら出来なかった死という現実にも向き合った。
 例えば、昔の小学校の先生の死。
 よく遅刻したり赤点を取ったりして廊下に立たされたりした。
 道端で会うとすぐに、宿題は終わったのか、と聞いてきた。
 憎んだ事もあった。
 だが、結婚式の時には、本気で祝ってくれた。
 思い出してみれば、いつも自分の事を気にかけてくれていたように思う。
 その恩師が急死した。
 急いで駆けつけた病室に横たわる恩師を見て、随分小さいな、と思った。
 先生は、いつも大きな存在だった。
 偉大すぎて、まるで巨人みたいだと思っていた。
 だけど動かなくなって横たわる先生は、ひどく微小な存在に見え、覚えている姿ではなかった。
 はかなく小さな命。
 死が、そんなに間近に存在するなんて思わなかった。
 もうあの怒鳴り声も聞けないのかと、無性に悲しくなった。
 最後に先生の顔を見た。
 安らかな顔だった。
 先生がいたから、今の自分があるのだ、と思う。
 礼の言葉を短く述べて、白い布をかぶせる。
 部屋を出る前に思いついて、この前、仕事場に遅刻してしまいました、と呟いてみると、
 ──廊下に立ってろ!
 と叫ぶ先生の声を聞いたような気がして、小さく笑った。
 火葬された先生の骨を手の平に乗せた時、やはり、小さいな、と思った。
 これが先生なのだ。
 これが、いつも怒鳴ってばかりいた、あの恩師なのだ。
 家に帰ると、暗い部屋の中に入り、机に座った。
 もう、慰めてくれる両親や親友の姿もなかった。
 だから、一人で泣いた。
 久しぶりに、あの頃のように大泣きした。

 誰もいない小さな墓地で、花束を手からぶら下げ、空を見上げた。
 飛行機が雲を残して飛んでいく。
 両親と恩師の墓は、太陽の光を浴びて建っていた。
 いつも叱ってくれた。いつも笑ってくれた。いつも慰めてくれた。
 失ってから気付く大切さがある。
 その大切さに気付いていくのが、大人になるという事なのだ。
 たくさんのものを失い、反対に何かを知っていく。
 両親も恩師も、いくつもの過去の思い出達も、色々な事を伝えてくれた。
 もう一人、忘れられない人がいる。
 今はもうない、土管のある空き地。
 みんなでよく野球をしたり、とりとめのない雑談をしたりした。
 だが、隣の家に住むおじさんが、ものすごく怖かった。
 ボールで窓ガラスを割っては怒られた。
 おじさんは、自分が高校に入る頃に引っ越してしまった。
 やがて空き地も姿を消した。
 もう窓ガラスを割る事も、それで怒られる事もないのだ。
 何故か少し残念で、寂しい気がした。
 これからは一人で生きていかなくてはならない。
 たくさんの思い出に支えられ、自分の力で生きていくのだ。
 花束を墓の上に添え、そっと立ち上がる。
 自分が立っている、この小さな墓地は、昔は学校の裏山だった。
 友達と、よく虫捕りや探検をして遊んだものだった。
 自分は、頂上の一本杉が好きだった。
 この墓場にいると不思議と安らかな気持ちになるのは、以前の面影が残っているからであろう。
 ここなら、みんな安静に眠れるような気がする。
「おやすみ」
 呟いた瞬間、涙が出そうになって手で顔を拭いた。
 みんなが見ている。
 両親と先生だけではない。
 ここには、思い出達がいるのだ。
 廊下に立たされた思い出も、割れた窓ガラスも、優しかった父も、叱ってくれた母も。
 土管のある空き地も、一本杉の立つ裏山も、一緒に遊んだ仲間達も。
 そして、そして──押入れの中の親友の姿も──。
「さようなら」呟いて、墓地を出ようとする。
 一瞬、背後に、みんなが立っている気がした。
 両親、恩師、近所の人々、共に冒険した仲間達、そして生涯忘れられない親友──。
 振り向かなかった。
 分かっていたから。
 だから、前を向いたまま、微笑んだ。
「ありがとう」
 みんなの歓声が聞こえた気がした。
 幼い自分が、後ろで思い出達と遊んでいるように思った。
 ──もう、大丈夫だね。
 懐かしい声で、みんなが言った。
 みんな見ている。
 背中に、誰かの手を感じた。
 ジャンケンで、いつもグーしか出せなくて怒っていた手。
 ──のび太君。君なら大丈夫だよ。
 みんなの手を背中に感じた。
 耳元で、みんなの声がした。
 みんなの声は、確かに自分の心の中に刻まれたと思う。これからも生き続けていくのだと思う。
 思い出達は消えていくのではなく、飛び立っていくのだ。
 だから、自分も飛ぶのだ。思い出達に恥じぬよう、生きていくのだ。
 ──またね。
 みんなの声に答えるように、墓地から足を踏み出した。
 思い出達は立ち止まり、歩んでいく自分を、いつまでも見守ってくれていた。

 これが成長というものなのだ、と思う。これが大人になるという事なのだ、と。
 自分は大人になり、しっかりと社会の一員として、現世を生きているのだ。
 ──良かった。安心したよ。
 声を聞いた。
 知っている声だった。懐かしい声。
 声と共に、思い出が蘇る。苦い思い出や辛い記憶もある。喧嘩もした。
 だけど、そういったものも全部ひっくるめて、自分達なのだと思う。
 ──またね。
 確かに、その通りだ。寂しくなんかない。いつだって傍にいるのだから。
 前へ前へと歩いていこう。それが生きていくという事だから。