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懐かしい声が聞こえた。
忘れかけていた、昔の思い出が蘇ってくる。
思い出す。
夢が詰まった宝箱のような毎日のこと。
絶対に忘れないって約束した事。
裏山の一本杉の下で、五人で約束した事。
また、戻ってこよう。
みんなで、また、戻ってこよう。
この町に。
生まれ育った、この町に。
そう約束した事。
ずっと、忘れていた。
思い出したくなかった。
あの頃の自分は情けなくて。
そして同時に、あの頃の自分は幸せすぎて。
今の自分が失くしたものを全て持っていたあの頃の自分。
あの頃は、その事に気付かなかった。
失うまで、気付かなかった。
過去を羨むのをやめたのは、仕事を見つけた頃だったか。
過去を振り返るのはやめ、今を生きる事に専念しようとした。
働いていれば、何も考えずに仕事だけしていれば、昔の事など思い出さずに済む。
でも結局それは、ただ逃げただけだったのか。
自分は、整理しなければならない事柄から、ずっと逃げてきたのか。
懐かしい声が聞こえる。
呼んでいる。
知っている声だった。
もう、聞こえてくるはずもない声。
だから、夢なのだと分かった。
昔の夢を見ているのだ。
これは、夢なのだ──。
目を覚ますと、開いた眼から涙が零れ落ちた。
朝特有の肌寒さが突き刺すように身体を冷やす。
まだ春だというのに開け放たれた窓からは、鳥のさえずりが聞こえてくる。
しばらく顔を伏せたまま、窓から匂ってくる露で濡れた草の香りに包まれていた。
顔を上げれば、シンプルな仕事机が目に入る。
引っ越すときに、唯一実家から持ってきた机。
数年前は昔の写真を貼っていたのだが、いつしか全部外してしまっていた。
夢で聞こえてきた声を思い出す。
上体を起こし、軽く伸びをして眼鏡をかける。
窓から朝日が差し込み、机の上に山積みにされた書類を照らしている。
そして、昔と何も変わらずに、ただそこに存在している机の引き出し。
君なのか?
心の中で問う。
あの声は、君なのか?
引き出しに光が当たる。
心臓が、とくんと弾んだ。
そこに、今はもういるはずもない親友の姿を見たように思ったから。
「のび太さん?」
静香の声が聞こえる。
「起きたの?」
「ああ」
僕は引き出しを見つめたまま答えた。
「今行くよ」
引き出しに近づき、開けてみる。
中には、仕事関係の書類などがぎっしり詰められている。
──また、戻ってこよう。
今度はハッキリと声が聞こえた。
「君なのか?」
僕は声に出して振り向いた。
振り向いた先には、おしいれがあるだけだ。
「のび太さん?」
また静香の声が聞こえる。
僕は何も答えず、おしいれを開けた。
中には、布団が詰め込まれているだけ。
背後で、扉が開いた。
静香が入ってくる。
「どうしたの?」
──みんなで、また、戻ってこよう。
僕は椅子に座り、机をなぞった。
指に感じられる机の感触とともに、静かに思い出達が蘇ってくる。
「……約束を覚えてる?」
僕は、静香の方に振り向き、小さく笑みを浮かべた。
「ちゃんと覚えてるわよ」
静香が言った。
「裏山の一本杉の下で、最後の日、あの日に約束したのよね。中学校を卒業した日に。三十年後の今日、みんなで、また集まろうって」
「僕は忘れていた」
車を運転しながら、僕は膝の上に置いたアルバムのページをめくった。
小さい頃の自分。
なんて楽しそうな顔をしているのか。
「すっかり、忘れていたんだ」
口にすれば泣きそうになる。
何故、忘れていたのか。
何よりも大切な仲間達との約束の事。
何よりも大事な、仲間達の事。
静香の手が、僕の腕に触れた。
そうしてくれると、安心する。
今を、そして今でもまだ残っている仲間の絆を、思い出させてくれるから。
窓の外に眼をやると、どこまでも続いてそうな草原が果てしなく広がっている。
昔、この辺りは都会だった。
だが、火星などに移民が始まってからは、地球上の自然を取り戻す活動が広がり、住み心地も良くなった。
それはそれで素晴らしい事なのだが、自分達の暮らした町には、変わっていてほしくなかった。
空き地や学校や裏山や川原。あのままでいてほしい。
仲間達と同じように、あの風景達にも、そのままでいてほしい。
そんな僕の気持ちを悟ってか、静香が急に窓から顔を出し、吹いてくる風に抗って何事か叫んだ。
「何て言ったんだい?」
「待っててね、今行くよって」
僕は微笑んだ。
静香は変わらない。
大人になっても、心は、あの頃の静香と同じ。
全てを包み込む優しさは変わらない。
そうだ。
外見が変わったとしても、共有した思い出や、それぞれの個性は変わらないのだ。
「たけしさん、来てるかしら」
「……分からない」
最後に、あの憎めないガキ大将と会ったのはいつだったろう。
……スネ夫の葬式の日だったか。
それも高校二年の時の話だ。何年も会っていない。
「……彼には、会えるだろうか」
僕は呟いた。
もちろん、静香には誰の事か分かっていた。
「会えるわ」
僕は静香を見た。
静香は、澄んだ眼で僕を見つめ、微笑んでいた。
「きっと会える」
出発したのは朝だったのに、もう夜になってしまっていた。
隣で寝ている静香の身体に毛布をかけてやると、僕は運転を再開した。
もう少しで、あの町に着く。
ハンドルを握り、暗い道路を走る。
ライトが闇を切り裂いていく。
眠気が襲ってくるが、運転中に眠るわけにはいかない。
それに朝までに着いて、静香を驚かせたい。
事故だけは起こさないように、慎重に夜道を走っていく。
膝の上には、開かれたままのアルバム。
僕は道を曲がり、トンネルに入った。
他に車も通らないトンネルを抜けていく。
車の走行音以外は何も聞こえない静寂。
──また自慢かよ。
はっとして、窓の外を見た。
トンネルには、誰もいない。
静香を見ると、静かな寝息を立てて眠っている。
──ねえ、これ見てよ。最新型のラジコンさ。
顔を正面に戻したとき、目の前に、最新型のラジコンを手にしたスネ夫の姿が浮かんだ。
……そうだ。これは、スネ夫の声だ。
──まあ、すごい。
顔を、ゆっくり静香の方へと向ける。
静香は、まだ眠っている。
僕から見て左、静香側の窓の外に、声の主はいた。
少女時代の静香が、僕の正面に浮かぶスネ夫に向かって、ラジコンを褒めている。
──おい、もっとよく見せろ。
僕は慌てて右側の窓に目をやった。
ジャイアンが、スネ夫の持つラジコンに向かって手を伸ばしている。
そして。
──ねえ、もっとよく見せてよ。
ジャイアンの隣に。
──ねえったら!
僕がいた。
子供時代の僕。
ずっと嫌悪し、そして羨んでいた昔の僕。
──ねえ、ジャイアン、スネ夫!
ハンドルを握る手に力がこもる。
「ずっと……」
歯を食いしばって、囁くように言う。
「ずっと、お前の事が……」
次の瞬間、目の前が真白になった。
そして気がつくと僕は、あの頃の空き地に立っていた。
目の前では、子供時代の四人が、土管に座って話している。
──だから、俺に貸せよ!
──駄目だって!
──ねえ、僕にも見せてったら!
──ね、終わったら私にも見せて。
僕は辺りを見回す。
こんな事があるのだろうか。
これはまるで──。
──あれ、誰かがこっち見てる。
昔の僕の声。
そして、
「ねえ、おじさん、どうしたの?」
僕は顔を上げた。
目の前に立っている。
ずっと逃げてきた、昔の自分が。
額には、ジャイアンに殴られたのだろうか、大きなタンコブ。
「僕は……」
目が泳ぐ。
視線が彷徨う。
駄目だ。
しっかりと見なければならない。
昔の自分と、きちんと向き合わなければ。
「君は……今、幸せかい?」
「え……そんなの分からないですけど」
「……だろうな」
「変なおじさん。じゃ、僕みんなと遊んでるんで、これで」
昔の僕は、走り去ってしまった。
せっかくのチャンスを、僕は生かせなかった。
悔しくて目を閉じる。
次に目を開けると、僕は学校の廊下に立っていた。
目の前に、廊下に立たされた昔の僕がいる。
「……僕は」
目の前の僕が顔を上げた。
「僕は、ずっと君が憎かったんだ」
世界が揺らぐ。
昔の僕の姿が遠ざかり始める。
駄目だ。
まだ、駄目だ。
「僕は、」
言葉を紡ぐ。
昔の自分へ、正直な言葉を。
「君の事を、羨ましがり、蔑んでたんだ」
遠ざかりいく僕に向かって、叫ぶ。
「君は、頭が悪い、宿題はしない、喧嘩は弱い、何をしてもうまくいかないし、いつも苛められたり怒られたり、人には迷惑をかけてばかりで……」
昔の僕は、何も言わずに僕を見ている。
「それなのに、それなのに僕が持っていないものを、たくさん持ってた。大切なものを、いっぱい持ってた。それが……何だか羨ましくて卑怯な気がした」
涙が流れた。
昔の僕が、僕を見つめ、そして微笑んだ。
僕は、信じられなかった。
昔の僕が、僕を見て微笑んだ。
その瞬間、視界は再び光に包まれた。
「──っ!」
目を覚ますと、僕はハンドルを握り締めて、車の中に座っていた。
車は停止しており、辺りは既に朝になっていた。
目線を動かすと、そこは、あの町だった。
着いたのだ。
首を振りながら下を見ると、膝の上の開かれたアルバムが目に入る。
ラジコンを巡って乱闘しているみんなの写真。
「……着いたの?」
静香の声。
「あ──ああ」
静香が戸を開け放って、外に飛び出た。
「うわあ、懐かしい!」
僕も車を下りて、静香の隣に立った。
何も変わっていない。
店や道路など、細かいところは色々と変わってしまったが、本質は何も変わっていない。
「行こう」
僕は言って、静香の手を引いた。
「うん」
そして僕らは、僕らの町に足を踏み入れた。
──お帰り。
そう聞こえたように思ったのは、気のせいだったのか。
僕の家は、やはりなくなってしまっていた。
それによって、もう二度と“彼”に会えないのだという気がした。
僕の家だった場所は、公園に変わっていた。
一瞬、目の前の公園が僕の家に変わり、中から両親が笑いながら出てくる様子が目に浮かんだ。
──あら、どうしたの、そんなに汚して。まったく。早く洗いなさい。
──今日は会社休みだから、思いきり遊ぼう。
「……行こう」
僕は歩き出した。
「もういいの?」
静香が聞いてくる。
やはり彼女は、ちゃんと分かってくれている。
「うん」
僕は振り向いた。
今はもうない僕の家が見える。
そして、今はもういない両親も後ろに立っている。
ずっと笑っている。
僕は笑みを返して、前を向く。
両親とは、きちんと、お別れもしていなかった。
帰ったら、避けていたお墓参りにも、ちゃんと行こう。
「あ、空き地ね」
僕と静香は立ち止まった。
今にも、幼い頃の自分達の笑い声が聞こえてきそうだった。
土管の中には猫がいて、時折可愛く鳴き声を上げていたものだ。
土管の上では、ジャイアンが腰を下ろしてスネ夫から奪った漫画を読んでるんだ。
草の上に布団を敷き、昼寝をすると日光がポカポカ当たって気持ちいい。
何かあれば、いつもみんなここに集まった。
野球もした。
隣の家のガラスを割って、よく怒られたっけ。
僕と静香は、さらに歩き出す。
学校からの下校中にいつも通った川を渡り、学校の正門前に着く。
学校は、新装された様子もなく、陽射しと雨にさらされて、すっかり老朽化している。
運動場からは、活気ある子供の声も、もう聞こえない。
僕は正門前に立って、正面玄関を眺める。
すると、しかめ面をした担任の先生が、玄関からふっと現れる。
僕の記憶にある、いつもの先生の姿。
「おい、野比。宿題はやったのか?」
そうだ。
この先生の第一声は必ずこれだった。
──いえ。今から済ませてしまうところです。
と僕は答える。
「そうそう、静香君とはうまくやってるのかね?」
──はい、おかげさまで。
「いやあ、結婚式のスピーチでも言ったが、君達は必ず幸せになれると信じてたよ」
──先生のおかげです。みんながいてくれなかったら、僕はただの──。
「ただの……何だったというのかね? 君は私が教える前から、すごくいいものをたくさん持っていたよ」
──そんな。僕は何も出来ない弱虫だった。
「そして優しく人を思いやれる少年だった。私は、君を生徒にもてたことを、心から誇りに思うよ」
──……先生、校舎に入ってみてもいいですか?
「校舎に? 何故かね?」
──何だか……とても寂しそうだから。
「寂しい? ここがかね? まさか。もっと静かならいいと思うくらいだよ」
──だけど、もう誰もいないみたいだし、それに──。
「誰もいない? みんないるよ。騒がしくて耳を塞ぎたくなる」
──……みんなは……。
「みんな元気だよ。さあ、もう寂れてしまった学校に入ってくる必要なんかないさ。君は君の宿題を済ませて、今を生きればいいんだ」
──……はい。
先生は、学校の中に入って行こうとして立ち止まる。
「野比?」
──はい?
「君の事を誇りに思うよ。君達みんなの事を誇りに思う。君達の事を考えれば、寂しくなんかない。分かるね?」
僕は頷く。
「君達はいつまでも、私の生徒だよ」
その言葉を最後に、先生は学校の中へと戻って行き、学校は無人になる。
葬式の時に見た先生の安らかな死に顔を思い出し、微笑する。
「さあ」
僕は言って、静香を見た。
「宿題を……済ませに行こう」
一本杉は、しっかりと残っていた。
僕らがそこに着いた時、既にジャイアンは木にもたれて目を瞑っていた。
「やあ」
僕が声をかけると、口の上に髭を伸ばしたジャイアンが小さく笑みを浮かべ、
「よう」
と相変わらずの低い声で言った。
「何してたんだい?」
「ちょっとな……スネ夫の奴に色々と報告してたんだ」
僕は頷いて木を見上げた。
スネ夫の墓参りに行った時、こんなところにスネ夫がいるはずがないと思った。
こんな石の墓の下に、あの自慢屋がいるはずがないと。
だが、ここになら、この裏山の木の下になら、あいつがいそうな気がする。
「……約束、」
ジャイアンが口を開いた。
何も言わなくても分かった。
ここに、みんないる。
ジャイアンも、スネ夫も、僕も、静香も。
そして。
いきなりジャイアンの腕が伸びてきて、僕はその大きな身体の中に抱きしめられた。
泣いていた。
ああ、ジャイアンだ。
図体ばかりでかくて乱暴でオンチなくせに、昔から涙もろかったジャイアンだ。
「……これで、あの日の約束……」
「うん」
僕も、ついに堪えきれなくなって泣いた。
涙が溢れた。
木の枝が風で揺れ、葉が擦れて音を鳴らした。
静香も抱きついてきた。
ジャイアンが腕を伸ばし、静香も抱きしめる。
その時、涙でかすんだ視界の中に、僕は見た。
少し背の低いツンツン髪の自慢屋が、ジャイアンの後ろからさらに抱きついてきたのを。
──また会おうって……言ったろ。
僕らは、泣き、笑い、手を叩きあった。
思いきり泣いて笑った後、僕らは裏山で寝転がり、空を見上げ、気が済むまで一緒に昼寝した後、山を下りて道路に出た。
ジャイアンと別れる直前に見たものを、僕は一生忘れないだろう。
道路に接したレストランのガラスのドアに、僕らは並んで映っていた。
そこに映っていたのは三人ではなく、五人だった。
ジャイアンの隣にはスネ夫が、そして僕の隣には“彼”が、微かに笑みを浮かべて立っていたのだ。
ジャイアンに別れを告げ、これからもの友情を誓いあった後、僕らは帰途についた。
不思議な事に、元来た道を戻る途中、一度もトンネルなど通らなかった。
あれは一種のタイムマシンだったのだろうか。
あの光り輝くトンネル。
そしてそれを通り抜けた時に辿り着く、過去の世界。
もしかするとあれは、“彼”の最後の“お世話”だったのかもしれない。
僕らは家に着いた。
静香は風呂を浴びてから、寝室に向かった。
僕はしばらく机に座っていた。
そしてふと、机の引き出しを開けてみた。
やがて微笑すると、立ち上がって部屋を出て行こうとする。
戸のノブをつかんだ時、僕は感じた。
振り向くと、机の引き出しが開いていて、隣に“彼”が立っていた。
もちろん、“彼”がここにいるはずはない。
だが、“彼”はいたのだ。
“彼”は何も言わない。
ただ、微笑んで僕を見ている。
僕も微笑んだ。
戸を開け、部屋から出る。
「お休み。ドラえもん」
最後に言うと、戸を閉めた。
夢を見た。
中学校の卒業式を終えた少年達が、裏山の一本杉の下に集まった。
そしてそれは、仲間達の一人が未来に帰ってしまう日でもあった。
「ね、約束しようよ」
言い出したのはスネ夫だ。
いつものように、何だかんだ行っても彼は提案者だ。
少年達は、皆頷く。
お互いの手を握り締め、固く結ぶ。
「また、戻ってくるって」
みんな、お互いの顔を見回す。
「みんなで、また、戻ってくるって」
「うん」
握り締める力が強くなる。
「俺……俺……」
ジャイアンが泣きそうな声で言う。
「ああ、俺、好きなんだなあ、みんなの事」
「僕だってさ」
眼鏡をかけた少年は、みんなの手を誰よりも強く握り締め、離そうとしない。
「俺達、いつまでも、友達だよな」
「そうさ。そうとも」
「約束だ」
五人は微笑み合い、やがて、手を離した。
「約束したからな」
ジャイアンが言う。
「この約束が、俺達の友情の証だぜ」
あれから結局、全員が集まる事はなかった。
だが、約束は果たせたのだと思う。
夢から覚めた時、どんな夢を見ていたのか、しっかりとは思い出せない。
子供の時の夢だったと言うのは分かる。
早朝の澄明な静寂の中で、しばらく夢を辿って物思いにふける事もある。
今を生きていく合間の、少しばかりの休息。
見ていた夢の事をもう少しで思い出しそうになりながら、僕は今を生きていく。